2017年4月29日土曜日


松戸の女児殺害受け防犯強化策 市が総合教育会議

★未だに「不審者探し」から脱皮できない視野の不備について

★悲惨な犯罪を減らしたい、無くしたい気持ちは皆さん同じだと思います。
どうすれば良いのか方法が判らないのでしょう?
どうぞ専門家に聞いてください。
犯罪社会学機会論はその答えを持ち合わせていますので。

ベトナム国籍の松戸市立六実(むつみ)第二小三年レェ・ティ・ニャット・リンさん(9つ)の遺体が見つかった殺人・死体遺棄事件を受け、松戸市は二十四日、総合教育会議を開き、リンさんが通っていた学校を含め市内の小学校の通学路に防犯カメラを増設することや、市役所などが使っている公用車のドライブレコーダー搭載を増やすなどの防犯強化策が示された。 (飯田克志)
 総合教育会議は本郷谷健次市長が主宰し、伊藤純一教育長、三人の教育委員(二人は欠席)が児童生徒の安全対策をテーマに協議した。事件では、六実第二小保護者会の元会長(二十日任期終了)の渋谷恭正(やすまさ)容疑者(46)が死体遺棄容疑で逮捕されている。本郷谷市長は会議後の取材に、自主運営の組織の在り方などを市教育委員会や保護者会と協議していく意向を示した。
 市側が示した見守りの強化策によると、福祉系事業者の車両四百台ほどに「防犯パトロール実施中」のステッカーを張ってパトロールをしてもらう▽地域住民が見回る「青色パトカー」(運行は午後~夜)に加え、市職員が青パトを使って登校の時間帯に巡回-などを実施する。
★記事には、市が示した強化対策で福祉車両に云々…とありますが
福祉車両に乗りながら「パトロール(見守り)」が本当に出来るのでしょうか?
職員の業務の更なる負担にならないのでしょうか?
また本来の福祉業務が疎かにならないのでしょうか?

パトロールをしてもらのではなくステッカーを貼ることによる
「視認性や当事者意識や縄張り意識」を高めてもらう、という主旨なら解かるのですが…。
(人の目や意識が犯罪企図者に対し犯罪は許さないということ、侵入は許さないということ、いつも見てるぞ!ということ、自分たちの事としてとらえてるのだ!ということ、を発信する)
プロのパトローラーでも判断できない「犯罪企図者」を「不審者」として
福祉系事業者や職員さんがどのように見分けるのか?
失礼ですが甚だ疑問なのです。

 防犯カメラの増設では、六実第二小の通学路に五月末までに三台を設置。この他、十月までに市内のほかの小学校の通学路に十八台を優先的に設置する。ドライブレコーダーは、搭載済みの市役所や支所で使う公用車三十五台に加え、二百三十一台に搭載する計画で、大半は夏ごろに取り付けを終える。防犯協会などが所有する青パト十八台にも搭載する。
 会議では、教育委員から、登校途中まで子どもに同行してもらうなど保護者の協力や、防犯の専門家を交えた対策の検討の必要性を指摘する意見があった。伊藤教育長は、子ども自身が危険を察知できるように「教育の質や安全の意識を転換していかないといけない」と述べた。
 会議の最後に、本郷谷市長が「家庭、地域、いろいろな人が連携を取っていくことが今まで以上に必要になっている」と述べ、さらに対策を検討していく方針を示した。
★この記事から読めることは、犯罪予防意識が「人」に視点が向かっていて
「環境」や「状況」や「場所」を向いていないのです。
ですからそんな防犯活動は止めた方が良いと私は考えるのです。
(止めろというのではありません、やらない方が良い場合が在るということです)

コメントはあくまでも記事を見た個人的な感想ですので松戸市や関係者各位に対して
批判してるものではありませんことをつけ添えます。

JCP主宰 防犯アドバイザー Abarth@JCP

2017年4月26日水曜日

★集団登校していたのなら…

★子供にとっての安全とは?

★前回の記事の追記です。(危険度の高い状況・環境だったのでは?)

前回の記事ではこう書きました。
1:心理的な抵抗性(ソフト面)が低下してたと言えます。
2:同じく物理的な抵抗性(ハード面)も低下してたとも考えられます。

これはどういうことかと申しますと、(低下の理由の如何は判りませんし問うこともできません)

抵抗性の低下…集団登校(抵抗性・ハード面)という素晴らしい安全なシステムがあるのに
集団登校しなかった、出来なかった(時間帯がずれたことによるハード面の低下)こと。

そして集団登校に間に合うように(同じ時間帯に・毎日)
子供を送り出さなかった、送り出せなかった、
安全な状態を維持しなかった、或いは出来なかったこと、
若しくは、しようとしなかった(良い状態を維持しようとするソフト面の低下)ことによる
通学路が極めて危険度の高い環境と状態を作ってしまった、
犯罪しやすいような機会を一瞬、犯罪企図者(犯人)に与えてしまった。
ということです。

そして付け加えるなら
集団登校なのに「全ての子供が集まっていない」のに登校させてしまったこと。
これは言い換えれば「大人の事情」であり「大人の責任」であり、
こどもを守る為に真摯に反省し、早急に改善しなければならないのではないでしょうか?

子どもの「いのち」を失うことは取り返しのつかないことであり、
その悲しみや憎しみも消えることはありません。
地域や住民にとっても「大きな損失」でもあります。
無くしたものは戻りません、帰りません。
後悔する前にやるべきことは万全にしようではないですか?
少しでもお役に立てればと思い私の想いを述べさせていただきました。

防犯アドバイザー Abarth@JCP

2017年4月23日日曜日

昨日は、あいにく時間帯が重なった2つのイベにそれぞれ参加してきました。
テーマはどちらも「まちづくり
片や「市民提案型まちづくりチャレンジ事業公開プレゼンテーション」
片や「地域づくり講演会」

冒頭から感じた違和感。…



前者の、市民提案型まちづくり…のプレゼンでは、数々のチャレンジ事業(者)があることを改めて実感(再発見)しました。
皆さん(各任意団体や任意の会)の活動(存在)趣旨や活動(事業)計画・事業報告などを熱心にパワーポイントを使いプレゼンテーションしています。
しかし残念ながらデータや資料・画像の羅列とお題目だけで、
本来の目的である「まちづくり(のための活動)(の意味)」が何故か?みえてこないのです。
真剣に取り組んでる意欲(熱意)は感じられるのですが今一つピンとこない。
何なんだろう…?と私なりに考えてみますと、本来まちづくりによる受益者であるはずの「地域住民」(まちにすむひと)の顔や姿が見えないのです。
例えば「地域の特産物を使った」「商品開発」やそれに伴う地域住民の協働とその場所の提供・機会の提供をお話しされるのですが、
それってホントに「まちづくり」なのでしょうか?
(チャレンジ事業選考委員会の先生がたからもソコには指摘がありましたね)

商品開発は一事業として事業主が行えば良い話だと思いますし、市の税金を投入する話でもないと思えます。
また「名産品」を作っても「まちにすむひと」には直接的に還元されることはないと思えるし、あるとしても一部の人たちではないでしょうか?。
全ての「まちにすむひと」の利益(満足)を求めることは出来ないにしろ少なくとも共感を得ることが出来なければ「まちづくり」事業としては成り立たないでしょう。

まちづくり」って行政(の都合)や企業(の思惑)や思い入れ(自己満足)のある方々のためにやることじゃない、と思うのです。
(これは私が過去に活動してきたNPO団体や障がい者支援の活動で学んだこと)

多くの行政や企業が実施しているインバウンドや観光・誘致、B級グルメはじめ名産品や素材を活かしたモノづくり、それらを活用する施設などの箱物づくり、何かと問題のあるふるさと納税、今在る遺産や文化財保護などなど…やはり視点が「まちにすむひと」を向いていません。外向きなのです。
が、私が否定的に書いたこと思うことすべてが悪いとは言ってません。
それはそれで有効に活用すればいいだけの話であります。
海外やほかの地域から沢山の方々が訪れ、そして対価(お金ですね)が地域に落ちれば経済的には潤いますのでとても良いことです。
それを如何に「まちにすむひと」にいきわたらせるか?…そのシステム構築が不十分ですと地域住民の理解や協力・支援は得られないのではないでしょうか?
あえて内向きに考えることも…「まちづくり」には大切なことではないでしょうか?

その答えは明確ではないですが、後者の講演会に垣間見えるような気がします。

さて後者の、「二地区居住」のNPO団体代表の方の後援会では比較的まったりとしたプレゼン。
プレゼンといっても特に難し話はなく、何故この片田舎へ越してきたか?何が良いのか?それをどのように具体的に発信してきたのか?
ありがちな地域の自然や環境・食材や良いところばかりを発信してきたのではないと感じました。
何もないところ・不便なところ・嫌なところ…実際は住んでみると沢山あるのですがそんな思い(良し悪し)を全て「ひとくくり」にし都心での生活と比較対照し自身は何を求めているのか?何が豊かなのか?を問いかけるプレゼンでもありました。
都会と田舎の二重生活の中で、無くなるもの(都会で無くしてしまうもの)と、豊かに残っているもの(無常ではあるが)への想い。
そんなお話に共鳴する参加者はおられたのではないでしょうか?
見る視点が違うとやるべきことが見えてくる・・・私が言うまでもなく皆さんご承知でしょうが何かを始める、実行することは容易ではありません。
でも強い意志があればいずれは叶うことは可能であると思いますし、それは未知数です。
そうです!やるべきことは目の前のソコにあるのです。まず行動しましょう!

そして何より「他力本願」ではないこと。
(移住者に過度に期待する、行政に頼る、など)
これは重要であり最低限の「まちにすむひと」の責任であり義務でもあるでしょう。
これを失ってしまった地域では再生はないと思った方が良いです。
太古の昔から「ムラ(地域のコミュニティ)」は「まちにすむひと」の想いと行動で培ってきたものなのですから。

この地域に住める喜びを…再発見し、それをいかに次世代に継承していかなければならないかを考えさせられました。(わたしのようなよそ者の移住者がいうのもなんですが)

前述した、いわゆる地域おこしと、私が啓発している町の安全…どちらにも類似性・関連性があるのではないかと思うのです。
それは「まちをみること」「まちにすむひと」をみること。…ではないでしょうか?


ちと哲学的(?)な話にはなりましたけど(普遍的な答えのない、出ない事への考え)
今日の公開プレゼンテーションでの違和感から、私なりに類推する「疲弊していると思われる地域のこれからの在り方」を、徒然と書き連ねてみました。

防犯アドバイザー
Abarth@JCP